bullet proof soul / side-B

じつは防弾仕様になっておりません

  プール / 大森理香  


映画を観たのでした。


公式サイト→ http://pool-movie.com/


的外れな感想なのにネタバレを含むので畳ませていただきます。









この映画に流れているゆったりした時間はとてもいとおしいものなのだけれど、なにやら私にはもやもやしたものを残すのでした。
最初のほうで主人公のさよに感情移入してしまい、映画の中でさよは変化していくというのに、私は変われないのでした。さよは受け入れていくけれど、私は受け入れることが出来ず、子供のまま駄々を捏ねているような感じ。私が自由になれないのは自由な人を許せないからなんだろうか。
母親が自分から離れて行った先で、他の人たちと幸せに暮らしていたら、捨てられた感で一杯になってしまうよ私は。特に子供なんかが居て大切にされているのを見たら惨めな気分になってしまいそうだ。
映画の中の人たちは、うまくいかない部分も含めて認め受け入れて生きている。行方不明の母親、疎遠な家族、野良牛、捨て犬、死に行く運命。あるがままに。ひとはいずれ死ぬ。そこに至るまでの道のりを淡々と歩くひとたち。カラフルで活気のある市場でのやりとりや、美味しい食べ物、浮かび上がるコムローイ、木々を揺らしプールをさざなみで満たす風。うつくしいけれど外から眺めるのではなく、受け入れて内側に感じられるようになるためには、苦い部分も飲み込むしかないのだ。自由であることには責任が伴う。犬猫は捨てちゃだめ(違)。それを知って、さよは六日間で成長した。私は。
どうも上手く書けないのだが、この映画では彼らの生き方が正しいのか間違っているのかは断定してはいない。どちらとも言われない。見た人それぞれにゆだねられる。


関係の無いことを。
人は一生のうちに誰かの子供として生まれ、大抵は誰かの親になる。子供を持った人はよく言う。「子供をもって初めて一人前」「子供を持って始めて親の気持ちがわかる」そうなのかもしれない。だとすると、子供の無い私は永遠に誰かの親になることはないわけで、永遠に誰かの子供のままなのだ。成長せず、変わらず、誰かの子供のままでありつづけるのか。
数年に一度親に会うと、その老いにショックを受ける。彼らはかつて誰かの子供であった。そして誰かの親になった。そう私の親。彼らと居ると私は子供のままだと感じさせられる。叱られるような気がして、咎められるような気がして、それでいて頼りない年寄りである彼らに苛立つ。過去を振り返れば悪いこともあったけど、愛された記憶だってある。複雑な感情を胸に抱いたまま私は実家を離れる。過去はそんな風に置き去りにされる。新幹線の中で考える。取り返したいものもある。やり直したいことがたくさんある。だけど私は誰かの親になってやり直すことは無い。
弟がいるのだが、いまや彼は二児の父となり会社では部下がいる。しかし私の頭に浮かぶ姿はいつも半ズボンで、自慢のサイクリング車に乗って訳も無く近所を走り回っている彼なのだ。そんな彼はもういないのにね。私だけが子供のままで置き去りになっているみたいだ。迎えに行ってやりたいな。そんなだけど愛されているよって教えてやりたいな。
なんだかとりとめの無いことをとりとめの無いまま書いてしまった。言って置くけれど、子供が出来れば誰でも自動的に成長できるって思っているわけではないですよ。そうじゃない例をたくさん見てきました(笑)。それに、自分がガキなのは子供がいないせいだと言いたいわけでもないです。ただ自分の選んだコースについて考えることはあるよ、と。
この映画を見てこんなことを思ったのだけれど、きっと他の人は違うのだろうなあ。最近、自分のズレっぷりに驚かされます。いいけどさ。いろいろ不便なのよね。